とっておき花火話

花火師時代の話
花火師時代の話
専属花火師
平成淀川花火大会
の花火企画委員長
時代のお話
サザンオールスターズライブの花火
キッチンスタジオ幸楽のマスターは専属花火師時代自慢できる経験をしました。
それはサザンオールスターのツアーライブ神戸の会場で花火を揚げたことです。
場所は神戸ポートピアの空コンテナヤード、現在兵庫医療大学のキャンパスになっているところ。当時今は無きポートピアランド土日の花火や神戸グリーンスタジアムなどの現場が多かったので 兵庫県への申請はおてのもの、元請けの細谷エンタープライズさんから花火の申請と台船の手配、 海上保安庁の申請まで任されました。 その流れで花火ディレクターとして当日までのライブの打ち合わせに参加。サザンは参加してないけどライブの段取りの打ち合わせ。実際は打ち上げのタイミングさへ、聞いたら事済んだけど、スタッフからの花火に対する質問に対応していた感じでした。台船でのセッテイングが終わったら仕事はライブラストの打ち揚げまではフリーなので、バックヤードにあるスタッフ専用食堂テントで食事を堪能、そして主にステージ裏でサザンのライブを堪能しました。全国ツアーで特効花火はあっても尺玉まで揚げたのは神戸だけでした。ライブ終了で桑田さんの掛け声が合図で花火の点火です。花火が揚がっているその間にバックより船でホテルオークラ神戸へ移動。船上から花火をご覧になったようです。 同乗していた知り合いによれば、サザンのメンバー大うけだったと聞いています。
東条湖の花火
花火師専属時代
(今もフリーランスの花火師でありますが)
東条湖の夏祭りの花火を担当しました。
メインが地域の夏祭りなので、ラストの20分ほどの
打ち揚げですが、
予算・時間も制約の中の打ち揚げは
演出・構成の腕のみせどころ、大変面白かった!
東条湖の真ん中に、
桟橋を打ち揚げ台船にして持って行き、実行します。
最高8号まで揚がる良好な打ち揚げ場所ですが、
準備・撤去には最悪な現場。
駐車場から50mほど、平地でなく、10mほどの高低を往復。
ガラス繊維の軽い筒でなく、鉄の重い筒だったので最悪。
打ち揚げ終了から台風並みの嵐になり、
撤去終了は午前さまになりました。
真夏なのにふるえあがったのをハッキリ憶えている。
辛かったけど、面白かった。
1999年毎日新聞に取り上げられました
平成11年 天神祭り奉納花火に関わったということで毎日新聞の記事になりました。当時の状況そのものです。
(以下記事本文)
けったいでんあな
(妙、変てこ、おかしい、不思議などのさまざま意味を含んだ言葉で「えげつない」とともに大阪弁の両横綱。この欄では誉め言葉としてつかう。)
<今週の金言>
花火大会は年に一度のもん。毎年かわったものをしたい。この辺でええか、という妥協は気に入らん。
初めての花火が追悼の500発
十三に花火にかけたロマンチストがいるという。古賀さんは大阪で最も古い花火大会天神祭
の奉納花火を演出し、最も新しい平成淀川花火大会も手掛ける。本業は十三にある割烹料理店の3代目料理人。男のロマンの香りを嗅ぎたくて訪ねてみた。「12年前生まれて初めて500発の花火を見て「きれいな」と思いのめりこんだんですわ。」
古賀さんが初めてみた500発は今や花火大会とは言い難い。今年の天神祭で1500発で最小クラス、古賀さんが関わってきた平成淀川が現在2万発。
ただこの500発。古賀さんの地元商店街で夏祭りの世話役が亡くなり、遺族や友人が追悼に上げた花火だったのだ。そんな想いがこもった花火が古賀さんの心を揺さぶったのかもしれない。
派手になるほど不統一感を痛感
古賀さんは1989年平成淀川花火大会の運営委員会に加わり会場の設営などを手伝った。3000発でスタートした大会は年々花火の数を増やし数年後には5000発を超えた。ところが、花火が派手になるにつれ、全体的な統一感のなさに気づいた。複数の花火業者がバラバラに打ち上げているのだ。「ほな仕切ったろ」と決心したものの最初のうちは花火師と話してもチンプンカンプン。とりあえず近畿各地の花火大会を1人巡り歩き、花火の本を買い込んだ。その結果1万発になった第7回大会から花火師を任された。
音楽で打ち上げタイミング図る
花火師には打ち上げ花火の種類やタイミングを決める設計役と実際に花火玉を筒に込める施工役がいる。古賀さんは設計役。音楽で言えばオーケストラの指揮者みたいなもん。実際に花火の会場でポップスなどのメロディを流しそれに合わせて花火をあげるのが古賀さん流なのだ。「曲を決めるたって打ち上げは1時間近くに渡るから単純じゃダメ。」クラッシックの組曲にストーリーがあるように古賀さんはまずストーリーを考える。
年中頭の中は花火のこと。料理をしていても花火のアイデアが思いつくたび、大学ノートに書き留める。1年間で大学ノート1冊が細かい字でびっしり埋まる。
昨冬、近くのお好み焼き屋で隣席の若い女性が偶然にも平成淀川花火の話をしていた。
「なんかストーリーを感じるねん。」 感激した古賀さんは女性にビールをおごった。
幼い時から割烹料理店を継ぐように言われて反発。大学時代はラジオのプロデューサーにあこがれたが、父親が病気で倒れ仕方なく継ぐことに。専門学校に入り、調理師の資格を得た。花火をはじめたのも当時のもんもんとした思いを花火が吹き飛ばしたからかも。それに「ラジオを通じて人に夢を与えたいという思いが花火で実現できた」とロマンチックやね。
自分でもそう思います。妻に言うたらわらわれるけど。
残念なのはお連れ合いが花火にかける情熱を理解してくれないこと。でも古賀さんが「商売は好きやない。新しい料理のアイデアを出すのは好きやけど、自分で作業せなあきまへんやろ」と言うんだからお連れ合いの気持ちなんとなくわかるな。せめて2年前の平成淀川花火大会の2日後に生まれた娘は理解者にと願う古賀さん。でも昨年は連れてって大泣きされたとか。ロマンチストの前途は多難のようです。
夢実現 天満宮から依頼
「熱意をもってアプローチすれば夢はなんとかなる。花火をやってておもいます。」天神祭もなにわっ子として1度は手伝ってみたいと思っていたら天満宮から依頼が舞い込んできた。次の夢は2008年大阪五輪の花火を打ち上げること。日本の花火の素晴らしさを世界にアピールできるチャンスですし。今年の平成淀川花火のテーマも五輪。
河内音頭を取り入れたり 仕掛け船も登場する。あなたも夜空に華開く男のロマンを見に出かけませんか。
大道寺峰子 (毎日新聞記者)
平成淀川花火とマスター
平成淀川花火とマスター
幸楽のマスターとなにわ淀川花火大会
(平成淀川花火大会)のかかわり
  1回大会から12回までの歴史
「第0回大会」
「第0回大会」
平成淀川花火大会がはじまる1年前。
十三どんとこい祭りの前夜祭という形で、はじめて花火が打揚げられました。
 そのきっかけというのが、当時の地元有力者のお弔いに、ご子息が費用を出したというものだったのです。その有力者っていうのは、ナポレオンのおっちゃん・・・といってもわかる人はほんの一部でしょうが?とにかく花火は30分弱、打揚りました。
 淀川の十三側から観客は花火を観る形で、打揚げ場所は対岸の中津側のグランド。
川の際に打揚げ場所をもっていったとしても、保安距離150mとれるかとれずの状態なので、4号玉(160m揚がり直径120mの開花)を揚げていたのか?ひょっとして3号玉(120m揚がり直径60mの開花)だけだったのかも?
私自身は、はじめて観る大型花火で完全にしびれてしまったわけです。
 その前夜祭の花火がそのまま次年の第1回平成淀川花火大会へと繋がるわけですが、そこから、幸楽マスターの花火師としてのキャリアが始まったのでした。
平成とともに

平成元年、前年の前夜祭が花火大会へと移行したのですが、昭和から平成へ元号がかわったことで、その開催年がそのまま実施回数になるということで頭に「平成」をいれ、「淀川」を舞台にした花火大会ということで合わせて「平成淀川花火大会」という名称になったのです。
 実際のところ、いろいろ意見はあったようです。当時の栄町商店街会長のYおとうちゃんの一声で決まったように思います。
第1回大会にはそれまでの「十三どんとこい祭り」の役員の方々そして新たに淀川料飲組合の役員が加わり、委員会が構成されました。当時私は日本料理店を営んでおり、淀川料飲組合から参加させてもらい、会場委員会の副委員長ということで、来賓席と有料席を1グランドほど設営するお手伝いをしていました。
 花火業者はTという会社で、0回大会の花火と当時、天神祭りの奉納花火もしていた会社なので信頼していたのですが・・・。とんでもないことに!
第1会回大会の花火は・・・

第1回大会は、はじめてのことなので、専門のイベント施工業者に入ってもらい、その指揮のもと運営しました。0回大会もその業者が入っていたようで、花火業者Tもその業者が連れてきたのでした。花火予算は1000万だったと思います。1時間で単発の花火がゆっくりした間隔であがり、スターマインが少なかったのが印象に残っています。映像におさえていたので、その後何回か見ましたが、のんびりの打揚で観ていられなかったです。 今思いますに、対岸で打揚げそして最高4号ですから量の印象から考えて、私が当時花火を請け負っていれば、半額の500万で受けていたでしょう。
はじめてのトラブル
第2回大会は前回仕切っていたイベント業者には退いてもらい、その手法をそのまま真似る形で実行しました。花火のTとも直取引するなど各委員会が業者と直取引をはじめるようになりました。順調に準備も進んでいたのですが、大問題が発生しました。 
当初8月上旬開催の予定で進んでいたのを、開催1ヶ月前にTから8月下旬への日程変更の願いがきました。Tの話によると取引先の花火メーカーが事故を起こし、Tに土下座をして平成淀川花火に日延べをしてほしいと頼んできた。断れば首を吊る勢いだったので断れなかったのこと。
今なら「そんなばかな!」とすぐに嘘とわかる話を無知ゆえに信じてしまったのでしたのです。
刷り上がったポスターを作り直したり、申請書書類をやり直すなど、コストがかかったように覚えています。なんやかんやとばたばたして、なんとか実施にこぎつけました。 
まだ2回目ということで知名度も天神祭や水都祭よりなく、観客もまばらで、今の状態から考えればのんびりした、いい時代でした。
第2回大会の花火は・・・
「第2回大会の花火は・・・」
花火は2回大会から川の中央に平台船を浮かべ打揚げていました。何台浮かんでいたか記憶にないですが、ワイドなイメージがなかったので1台か2台を連結で揚げていたのでしょう。昨年よりは発数は増えていましたし、スターマインも明らかに増えていました。手筒花火の披露もあったりで、バラエティにとんでいました。ただ時期が花火業界の一息ついた8月下旬、そして台船を使ったとはいえ、1回同様最高4号で、1000万の予算でした。(私が請け負ったら700万でしょうね。)
一応事故もなく、2回の花火大会は実施できたものの、大会として収支が合わない状態が、この2回で顕著になったのでした。入りがないのです。有料席はあったのですが、知名度もないので売れるわけはありません。寄付集めもがんばってはいましたが、そんなに集まるわけもありません。たしか終わった段階で2000万近くマイナスがあったように記憶しています。
このままでは、大会は消滅する。またマイナス分は大会役員が保証人になって銀行から融資してもらっていたわけですから、そのままが役員の借金になる・・・。
大きな改革
3回大会では大きな改革がありました。
これ以上赤字が出ないように、まず出費の削減と収入を得ることに注力しました。
大会の本部長Yおとうちゃんは当時の企画・広報・交通・警備・会場といった委員会の委員長を副委員長から抜擢し若返らせ、各委員会が業者丸投げだったことを委員長が業者とともに行うことで経費の無駄を洗い直したわけです。それを実際推進したのが、Yお父ちゃんの息子さん Hさん。 Hさんの指揮のもとそれぞれの委員長は業者と対等いやそれ以上の知識とノウハウを取得すべく、そのスタートの位置に立ったのでした。
また収入を得るため事業企画委員会を立ち上げ、有料席の増加と大企業への協賛金のアプローチを始めました。確かこの年で赤字はストップして累積赤字だけになったように記憶しています。4回、5回と回を重ね、大会の認知度が上がるにつけ累積赤字も解消し余剰金ができるまでになっていきました。
広報委員長
さて私の方は、第3回大会でYおとうちゃんから広報委員長を拝命し、いかに平成淀川花火大会の認知度を上げるかに奮闘する毎日でした。今もあるのでしょうか?「マミー」って幼児の雑誌がどこで知ったのか?なんと東西の有名花火大会の紹介記事で東代表「長岡の花火大会」に対し、西の代表として「平成淀川花火大会」を取り上げてくれたのです。その後、ケイコとマナブの花火特集の一部に取り上げられたり、地元コミュニティ紙に取り上げられたり。
関西ウオーカーが創刊され、はじめての花火特集に載せていただいた頃からは飛躍的に取材が増え始めたのです。時代の流れとして情報誌が急増した時でもあり、露出度は増えました。ただ花火のクオリティがよくなっていかねば、取材も当然、観客動員も伸びないということにその時 気付いたのでした。
3回大会の記録ビデオは初めての私の教材になりました。そして花火の勉強に他の花火大会にも足を運ぶようになったのもこの頃からです。天保山海上花火、天神祭、PL教祖祭、水都祭、宇治川花火大会、くらわんか花火、びわこ花火、そして遠出してふくろい花火大会、土浦全国花火競技会といろいろ見ました。また当時インターネットで花火おたく仲間ができたこともあり、ビデオを入手し、その映像で勉強もしました。

第3回大会の花火は・・・
3回大会から花火業者は岡山のSへ代わりました。例のTですが、2回大会終了後、役員達の耳にその実態の情報が入り、裏付けをとった上で縁を切らせてもらいました。そして代わる業者は?と言う話になったとき、役員の一人が池田の市会議員さんに友達がいるということで、猪名川花火大会を施工している業者を教えてもらい、そちらへオファーということになったのです。それがSです。ちなみに現在Sという花火屋さんは存在しません。そのわけは後ほど・・・。
さて、予算は1000万円のままだったですが、Tのようなぼったくりとは違い、3回大会は1時間半の大会になり、ボリュームがアップしました。しかし花火の見せ方がいまひとつでした。
当時はまだよくわからなかったですが、ほとんどが中国玉で、かなり儲けに走っていた業者だったようです。
停滞期
実は思い出そうとしているのですが、なぜか4回大会から7回大会までの記憶が一色単になっているのです。その間2回は雨天での実施だったこと。花火の筒割れ事故があったこと。阪神大震災があって開催があやぶまれたこと。など大きなことはあったものの・・・、花火について記憶がありません。運営は順調で収支も余剰金ができるようになってきていたようです。
この間、花火業者Mが加わり、Sとの2社打揚になっています。
Sの相変わらず今ひとつの演出に打開策がほしかったのと、その前年筒割れ事故を起こしたこともあり、予算ダウンと競合業者をいれることをSに持って行きやすかったという事情もありました。全予算が1600万円まで増えていて、各社800万円づつといった予算ふりだったと思います。
 ただこの段階では、シリーズを何個かに分け、パートを2社に振り分ける程度の注文しかできてなかったと思います。まだまだ勉強の途中でラストをどこどこの大会の様にしてほしいというくらいの注文しかできなかったと思います。この時期は、なさけない話、花火の演出をしていたとは、とても言えない状態でした。
早打ち
蛇足ですが、この時期「早打ち」という花火の打揚げ方法を、S・Mともに行っていました。現在、基本禁止になった打揚げ方法なのです。
一般的には打揚げ筒に打揚げ火薬と花火玉をセットして、後から火をいれ、花火玉を打ち揚げます。当然、筒は大会ごとに一回ぽっきりの使用なのですが、「早打ち」の場合はこうです。打揚げ筒の底にキンキンに焼いたチェーンを敷き、取手と打揚げ火薬がついた花火玉をその筒に放り込み、花火を打揚げるといったものです。
「早打ち」の場合筒1本で10発から15発打揚げ可能で、危険ではありますが、効率的で、当時は打揚げの主流であったように思います。現在主流が電気点火ということもあり、花火打揚げの現場は、電気工事をしているような現場なのです。
「早打ち」はもっとも花火師らしい作業で、間近でみせてもらったことはありますが
今となれば、一度は経験したかった作業です。
躍進の8回大会
第8回大会は躍進のスタートの大会でした。その年から、大会会長が淀川区を担当している大阪商工会議所の副会頭が会長にという流れになりました。
委員会のメンバーが、会長であるダイワハウスのIさんにご挨拶に行った際、同じ街中で開催される「隅田川花火大会」と同規模まで花火をボリュームアップさせようと、大会の規模の目標を示していただきました。それも10回大会までにという期限を設けられたことで、より具体的な花火のボリュームアップの計画を立てることができ、その財源も会長から商工会議所へ働きかけることで充実したのでした。
8回大会から、もともと存在していなかった花火打揚企画委員会なるものを花火おやじが立ち上げ、自ら委員長をなり広報委員長とを兼任いたしておりました。
もうこの頃の広報は、自ら売り込む広報というより、取材を受けこなすというのがほとんどで、8回大会までに研究と実際の試みから得た花火の知識から、花火打揚の企画を考えるのがメインになってきました。

8回大会の花火は・・・
「8回大会の花火は・・・」
7回大会に続き、花火業者S・Mがメインですが、びわこ花火を施工しているKが実施委員会に営業に入り、びわこ花火の演出力を買い、お試しで10分間花火を揚げてもらうことになりました。
S・Mとも製造も行っている業者でありましたが、Kは製造を行っておらず打揚げのスペシャリストです。当時、大阪府警察本部の保安で、花火の担当だったYさんに、よく業界のことを教えていただき、たとえば、くらわんか花火をしていたMの紹介もKの情報、そして10回大会から参加のIの紹介もいただきました。Yさん曰く、「Kはメーカーではないので、価格が高いけど、いち早くコンピューター点火を取り入れ、Kオリジナルのコンピューターシステムを構築していて、これからの業者だよ」。確かにびわこ花火しかり、演出に特化しており、参加いただいて正解でした。
この8回大会での、Kが行った10分のパートの打揚タイムスケジュールと、VTRが、私の花火のバイブルになりました。そのパートには、当時の一般的な花火玉全種類が含まれており、タイムスケジュールから、自分の理想とする打揚げタイミングが、見えてきたのです。また知識の範囲だったものが、現物を見て、花火の種類が把握できるようになりました。
8回大会が終わり、基礎を習得したので、インターネットでの花火仲間の情報や書籍での情報が驚くほど早く吸収できました。またKさんが疑問点を面倒くさがらず、教えてくれたことで、花火好きが花火ばかへと変貌しました。
9回大会以降の花火の演出は、変わったと自負しています。

7回大会に続き、花火業者S・Mがメインですが、びわこ花火を施工しているKが実施委員会に営業に入り、びわこ花火の演出力を買い、お試しで10分間花火を揚げてもらうことになりました。
S・Mとも製造も行っている業者でありましたが、Kは製造を行っておらず打揚げのスペシャリストです。当時、大阪府警察本部の保安で、花火の担当だったYさんに、よく業界のことを教えていただき、たとえば、くらわんか花火をしていたMの紹介もKの情報、そして10回大会から参加のIの紹介もいただきました。Yさん曰く、「Kはメーカーではないので、価格が高いけど、いち早くコンピューター点火を取り入れ、Kオリジナルのコンピューターシステムを構築していて、これからの業者だよ」。確かにびわこ花火しかり、演出に特化しており、参加いただいて正解でした。
この8回大会での、Kが行った10分のパートの打揚タイムスケジュールと、VTRが、私の花火のバイブルになりました。そのパートには、当時の一般的な花火玉全種類が含まれており、タイムスケジュールから、自分の理想とする打揚げタイミングが、見えてきたのです。また知識の範囲だったものが、現物を見て、花火の種類が把握できるようになりました。
8回大会が終わり、基礎を習得したので、インターネットでの花火仲間の情報や書籍での情報が驚くほど早く吸収できました。またKさんが疑問点を面倒くさがらず、教えてくれたことで、花火好きが花火ばかへと変貌しました。
9回大会以降の花火の演出は、変わったと自負しています。
全国花火トーナメント
9回大会の花火は、予算が2500万になり、それまで揚がっていなかった「質のよい玉(芸術玉)を打揚げたい。」という欲求がありました。花火のコンテストをすれば
通常の値段でも、気合いの入った玉が手に入ると考えました。日本の花火業界の権威だった故M氏に相談し、アドバイスをいろいろいただき、Kを窓口に、当時日本の花火つくりのトップクラスの8社に出展を依頼、Mさんの口添えもあり、8社はこころよく作品を出展してくださいました。
そんなこともあり、9回は花火コンテストをメインにした構成になりました。どのようなコンテストだったかというと、淀川の中央に台船を浮かべると半径250mの保安円がとれるので、最高8号玉まで打揚可能なのです。その8号玉を3発づつ
8社に提供いただき、トーナメント方式で、競うといった形です。
審査は会場にいる一般の100人の観客。朝日放送の協力で、100人の押しボタンと
カウント表示版を用意し、2社打揚げた内、いいと思った方を押すといった仕掛けです。
後日談ですが、花火業界で評判も高く、話題になったことで、花火の業界紙に原稿を依頼され、このコンテストのことを、書かせていただいたのを、覚えております。
9回大会花火演出の工夫
9回大会では、打揚台船の配置に工夫しました。それまでは、25m*8mの台船6台を、3台と3台に業者2社に分けるスタイルだったのを、あと3台増やし、Kの台船を左右両端と中央に配置し、ワイドな演出ができるような配置に変更しました。
オープニングは、K担当で、ワイドな規律正しいスターマイン。そしてS、Mにはテーマを与え、3パートずつ6パートを担当してもらいました。途中、花火コンテストの
1回戦・準決勝・決勝をはさみ、コンテストの余り玉10をゆっくりした打揚げのあと、
ラストを飾るのは、Kのスターマイン!ラストをラストらしくと、いままで不満に思っていたことを、解消してしまいました。錦かむろの連発に続き、銀かむろの連発と一斉
当時としては、最高のラストだったです
でもPL花火芸術の7000発一斉というラストを見てしまっている私は、それに近づきたい衝動がでてしまうのです。それからは、いかにPLに近づくが私の目標になっていたようです。
マスターの演出スタイル
9回大会で、花火の構成演出を担当し、その後のスタイルが決まりました。ポイントは次のようです。
・オープニングとエンディングで全体の半分弱の予算を組み込むこと
・特にエンディングには、全体の3分の一の予算をつぎ込む。
・オープニング、エンディングを除き7,8分のパートを5つほどつくる。
・7,8分が集中して見れる限界のため、次の印象をよくするため、パートの途中は30秒ほど全くの空き状態をつくること
・同じテンポでの打揚げはしない。後半に行くにつれテンポを早く。ただしエンディングの前には、わざとテンポをゆっくり。
・スターマインは同一種の玉をつかうこと。メインになる玉を修飾する玉を、まぜるなら2種までにする。
・ 8号玉を揚げる前には、3号玉や4号玉を先に見せ、8号の大きさを強調する。
・7.8号はスターマインで、使用するものを除き、質のよい玉(芸術玉)をつかうべき。
「1時間弱飽きさせない花火大会とは?」を考えればいいのです。大きさの強弱・テンポの強弱・花火の種類をたくみに使い、1時間弱の花火を組むのです。
最初の尺玉打揚
10回大会はいろいろあり、ものすごく印象深い大会でした。今はなき、ニュースステーションの特集で取り上げてもらい、ナマ中継で久米さんと掛け合いあり、(久米さんとHさんとの掛け合いでその横にニコニコ顔の私の姿が・・・)5月からの追っかけ取材のドキュメンタリーありと、すっかり全国区になってしまいました。それと大阪市内では史上初の尺玉(直径33cm玉)を打ち上げました。今はどうなっているか、確認していないのですが、中津側のグランドで、十三バイパスからJR神戸線の鉄橋の
中間あたりに、葦が群生している(させている?)場所があり、その場所を立ち入り禁止にすることで、半径300mの尺玉保安円がとれるという理屈です。このころの大阪府の花火を担当する保安の許認可は、厳しくなりかけていたころでしたが、まだ甘く
図面上クリアーしているということで、尺玉打揚の許可がでたのです。ただ翌年は実測で300mが確保できていなかったことで、それ以降の尺玉の打揚げは不可能になったのでした。
ただ現在、大阪維新の府市統合で大阪府の保安から、大阪消防本部に許認可が移り、また揚がるようになっています。
*平成10年ニューステーション
 https://youtu.be/7yYkZ9b6Vb4
 https://youtu.be/b4NAJL71HsE

憧れの花火業者参入
また10回大会では、アナウンスと音楽を、花火とシンクロさせる試みを行いました。
その翌年から2年間実施したFMキタの中継の基礎となったのでした。 
そして、9回大会が終わった後Sが他の現場で死亡者発生事故をおこし、廃業になっ
たことで、新しい業者を入れよう、ということになりました。早速、前出の元府警火取
締官Yさんの紹介でIに参入してもらうことになりました。前年の花火コンクールに
出品してもらった8社の内のひとつで、日本の花火メーカーの中では、10本の指に入る業者です。あのPL花火芸術の元請け4社のうちの1社でもあり、花火おやじにとって、あこがれの花火屋さんが参入したということで、大感激でもありました。
Iには当時出始めだったパステルカラーの花火、特に有名だった水色花火やスピン花火など最先端の花火を中心に2パートをお願いしました。Mには3年のつきあいで、得意玉がわかってましたので、その得意玉を応用し伸ばした形の玉と、私が思う冒険の演出をしてもらいました。Mには4パートを、お願いしたと思います。そしてKにはオープニング、21世紀へメッセージ花火、そしてエンディングを担当いただき、目玉でもある10号玉20発を昨年のコンクール出品業者に注文し、Kさんに購入してもらいました。今回は3社に同じ色・同じ大きさの花火玉を、同じタイミングで揚げることが出来るかの実験を行い、成功しました。これで指揮さえすれば、ワイドの演出を3社協同
同時に行うことも可能だ、ということがわかりました。
その後の構成で1つのパートを、1社にふるのでなく、2社でおこなうとか、業者の得意分野を有効に使うよう変わっていきます。花火の構成・演出について、何ができるか会得したのが、私にとっての10回大会であり、自信がそのまま実力になった大会でもありました。
花火大会のTV生中継とFM生放送
11回大会では、前年度のニュースステーションの視聴率がよく、テレビ大阪から花火の中継のオファーが舞い込んできました。夜7時30分~8時54分で、テレビ大阪恒例天神祭中継の方式、そのままの番組でした。テレビ中継は司会がリンゴモモコ、ゲストに川原あやこ。そして花火おやじも花火解説ということで出演させてもらいました。また当時の磯村大阪市長も飛び入り出演されました。ちょうど2008年のオリンピックを大阪に招致していたタイミングでもあったためです。
花火のテーマも『2008年大阪オリンピック』で閉会式を飾る花火をイメージして構成しました。また9回、10回大会で、花火とMCの解説、音楽をシンクロさせるノウハウを蓄積させたおかげで、FMキタでのFM波生中継も実現しました。番組構成も花火構成も花火おやじがさせてもらいました。FMキタの生中継は、11回大会の花火を100%シンクロさせたものでした。番組進行に合わせた形で、花火の点火指示を出すわけですから、ぴったりはまったのは言うまでもありません。MCはタージンと花火おやじの後輩 波江野友子さん。番組の進行にあわせ、特設スタジオからK社社長が花火業者へ無線で指示出し、そのタイミングで打揚台船では、3社がそれぞれ点火スイッチを押す作業といった流れです。後日、このFM生中継がギャラクシー賞の受賞の栄誉を得ましたことは、FMキタさんのご協力の賜と感謝しております。今もFMキタの事務所にはこのときの「賞状」が飾られてあります。そして幸楽マスターの名前は、FMキタのレジェンドとなったのでした。
第11回大会の舞台裏のドラマ
さて11回大会、何とか無事に事故無く終了したのですが、花火が打ち揚がる前、ドラマがあったのです。普段でも淀川は風が強いのが、当日はより以上の風があり、打揚げの影響が心配だったのです。大阪府と府警本部担当官の検査の際に、風についての特に指摘がなかったためひと安心、しかし、すべてのスタンバイが終わり、あと1時間で打揚げと言うときに、大阪府の担当官が打揚げ中止を言い出したのです。確かに風は強く地上で8mはあったので、担当官としては言わざるを得ないのか?しかしここで中止を宣言すると淀川河川敷の観客が、大パニックになるのは目にみえています。豪雨や雷など、観客が納得できる理由ならともかく、少し風が強いなぐらいで中止になれば、中止の理由がわからず不満は爆発する!想像を絶する混乱が予想される中、どうすれば、花火ができる?そこでたどり着いた答えは、当時の大阪府知事横山ノックさんが、今回の花火の許認可のTOPなので、招待席に座るノックさんに、指示を請おうということになったのです
ノックさんの指示は、「試しに何発か打って、その影響を見よう。」と的を得たものでした。すぐKさんに4号玉5発を打ってもらい、その影響を大阪府・府警本部の担当官に見てもらい、最終的にはなんとかGOサインが出ました。実はその日の風向きは、通常の川を西から東へ平行に流れる風ではなく、南から北へと十三側の会場へまともに向いていたため、4号玉の玉かすや火薬の燃えかすが飛んでくれば、即刻NGという賭の状態だったのです。そんなことがあったので、オープニングのスターマインが揚がったときは、ウルウルしてしまいました。もう時効でしょうから明かしますが、本番では風はましでしたが、試し打ちの時は結構な風速だったので、試し打ちにもし8号玉を打っていれば、火薬かすが観客席に紛れ込んでいたでしょう。試し打ちを4号にしたことはKさんのナイス判断でした。大阪府・府警本部の担当官が、玉を指定する前にすぐ打ち上げてくれたので、セーフになったのです。実際本番中も大玉が開花したとき、テレビ中継のセットにぱらぱらと、花火カスが飛んできましたから、大阪府、府警本部にそれを把握されていれば、事故扱いにされていたかもしれません。
11回大会の花火は・・・
11回大会の花火の内容ですが、2008大阪オリンピックに披露する花火という設定で、「日本の四季」をテーマに、季節を色そして植物の形状、自然現象で表しました。Kに担当してもらいましたが、夏のパートで篠原煙火のひまわり花火を注文していたつもりが、金の菊が揚がってがっかり、(それ以外は満足しましたが・・・)またPL花火芸術の大玉打揚のパートを真似る試みをしましたが、Iの大玉不着火が何十発あり、思惑とは外れた演出になってしまいました。ただ、大玉をよりよく見せる工夫として、3号玉・4号玉を一緒に打つのが、効果的ということを実感しました。そして夢であるPL花火芸術のラストの再現をということで、錦かむろのスターマインから一斉打ちのエンディングを試みました。ただラストの一斉は、色の明るい銀かむろの方が効率的というのも実感できたのでした。11回大会の経験が、私にとっての一応の完成作品である12回大会の花火をつくったと考えています.
*11回大会のオープニング動画
https://youtu.be/TYW6qnIuhCE
*11回大会のエンディング動画
https://youtu.be/0KUZaZZ20oI
12回大会の花火は・・・
12回大会の花火は、結果的に私が構成演出した最後の大会になってしまいました。12回大会の花火は、私自身の最高傑作の花火大会だと自負しております。過去11回で花火玉の種類は把握し、インターネットでの花火仲間からの情報や花火業界からの情報で、最新の花火玉と演出を把握しているわけですから、花火業者に対して怖いもの無し、(きっと業者はいやがっていたと思います)
まず、Kには12回で用意している花火玉とプログラムを報告させ、花火おやじがプログラムを作り直しました。Iさんにはスターマイン5種を提案してもらい私なりに手を加えさせてもらいました。また8号玉・7号玉も割ものの上物の注文をしました。Mさんには新作の玉ではなく、ありきたりの玉ですが、私の思うテンポでの打上を細かく指定し、冒険的なスターマインをしてもらいました。8号玉・7号玉の千輪もののみを注文しました。千輪ものは、この3年でかなりいい玉を作るようになっていました。
エンディングのラストは銀カムロの一斉で・・・。当初Kのプランでは、25秒かけてのスターマインでした。私は一斉が欲しいわけですから、いろいろやりとりがあり、10秒まで短くしたのです。7号から3号を取り混ぜての一斉ですから、7号が打上から開花するまで7,8秒、3号なら2,3秒と差があるので、誤差をいれ10秒ということで落ち着きました。当時としてはほぼPL花火芸術のラストを再現できたのではないか満足でした。
*12回大会エンディング動画
https://youtu.be/ffyYErg4gZs
*2008オリンピック花火
https://youtu.be/1NwQQT89AWY
FM放送と花火とのシンクロ
11回に引き続きFMキタの生中継があり、プログラムが決まったら曲の選曲、曲が決まったら花火プログラムの微調整、それこそ仕事の合間、昼間の空き時間、寝る前と頭の中は花火でいっぱい。
今回もFMキタの生中継にあわせての、花火の点火ということなのですが、花火業者への最終指示までに、2人が介する状態で、最終指示の人間が放送の方の進行を、把握していなかったために、微妙なタイミングのずれが発生、トラブルの即座の指示ができない、という昨年の反省から、私自らが打揚げ台船に乗り直接指示することしました。打揚台船上には3業者がバリケードを作り、点火操作盤とスイッチャー、補助員の総勢9名、そしてそこに私と私の補助として、大学の後輩O君にも乗ってもらいました。ラジカセを持ち込みFMキタの番組を流し、点火のタイミングを各業者のスイッチャーに、
直接口頭で指示する形です。特に今回は同じパートで、2社・3社が共同で打揚げる場面が大量にあったので、乗り込むことがベストだったと思います。
打揚台船がどのような状況だったたかというと、戦場とはこんな場所なのだろうと想像できました。指揮所から最短20m先で、火薬が爆発しているわけですから、発射音もすごいし、頭の真上で花火が開きます。玉カス、火の粉が雨の様に降ってくるわけですから、まともには花火を見ているわけにはいきませんでした。ですから会場で録画していた画像を見せてもらうまで、全体像はわかりませんでした。12回以降、なにわ淀川花火大会とは、関わらなくなったので、打揚台船に乗っての現場指示はこのときだけだったですが、もし花火の企画委員長を続けていれば、その後ずっと打揚台船での現場指示を続けていたでしょう。
その後のマスター
現在、形は変ったもののお店を再開させていますが、15年間お店を休止して平成淀川花火大会とは関わらなくなりました。
平成淀川花火にかかわった経験が武器になり、プロの花火師、イベンターとしての12年を過ごし、やりたいことをやりつくし、再び調理の世界に戻ってきました。とはいえフリーランスの花火師は続いています。オファーがあればいつでも花火には関わります。
面白い話があれば、いつでもお声かけください。いつでも馳せ参じます!花火のコーディネートはお任せ下さい。

終り
マスターと天神祭奉納花火
マスターと天神祭奉納花火
なにわ淀川花火大会が、まだ平成淀川花火大会と呼ばれていた時代の話です。
平成11年の確か5月だったでしょう。大阪天満宮からK禰宜・A権禰宜・府会議員のK氏が幸楽を訪問された。淀川区選出の府会議員H氏を介して花火について伺いたいとのことでした。総務委員長のYさんからその話を聞いたとき、ピンときたのが天神祭の花火を演出できるかも?でした。花火のことを勉強して数年、天神祭の花火も見学に行っていました。日本三大祭りでの打揚花火、日本中の注目を浴びているはずなのに、花火は惨憺たるものでした。花火と花火の間隔が長い。そして発数も少ない。音がして見上げれば、もう消えている。スターマインなんてありません。単打が何分かに一度、それも行き交う船御御の方が派手で、花火って揚がってる?みたいな印象でしたし、実際がそうでした。それまでポスターに花火が写ってましたが、花火を押さえるのに苦労しただろうな~と思いました。花火は平成淀川花火大会の0回、1回、2回を担当した例のTでしたので、その状態も納得でした。

天満宮からのお客様を迎える前に、桜宮グランドでの打上は、3号玉であること。そして予算が500万程度であるという情報を仕入れていたので、500万の予算で何発の花火が揚がるかの概算での花火計画を用意しておきました。天満宮サイド曰く、まず天神祭花火講の行っていることに合点がいかず、アドバイスがほしいということでした。私が計画を見せた時点で、もうぶっちゃけの話になり、花火講を消滅させ、花火実行委員会を立ち上げ、その委員会に平成淀川花火大会のメンバーの参加願いの本来の提案となりました。日本三大祭りの花火を演出するなんて、夢みたいな話。私が花火実行委員会のメンバーにはいることで話がまとまりました。
天神祭奉納花火は2つの打揚げ現場があります。桜宮の野球グランド(帝国ホテル前)
そして川崎公園(造幣局裏)です。実際に実施することになってわかったことが、打揚げの条件がいろいろあること。
桜ノ宮公園
打揚げ現場の桜宮グランドでは、3号玉が打揚げられていました。通常3号の保安距離半径150mなのですが、歴史的措置で100mに緩和されていました。とは言え、JR桜宮からグランド周辺の公園に入る入り口は封鎖しても半径100mは確保できません。結局大川の半分弱までが保安距離になるわけです。そんな状態なので、船御御の天満宮方向へ向かう側の船が通過する際花火は揚げられないのです。そこでグランド前には、花火監視船を設け、御御船がスムーズに通過してもらうよう調整するのですが、これが後半になると渋滞して、間隔を開けるのに一苦労、その監視船といえば、花火は真上に観られるし、船渡御ももっとも近く、天神祭最高の見学ポイントありながら、御御船の通過調整に大忙しで、それどころではありませんでした。
川崎公園
川崎公園の打揚げ現場は、桜宮公園のグランドよりも狭く川の半分を使っても、100mは確保できず、桜ノ宮同様の手法で2,5号は揚げることができていたようですが、ここは「アサヒビール」「日清食品」「日本経済新聞」の文字仕掛け裏打ちの打揚げだったので、2,5号の打揚げはやめ、小型煙火の打ち上げにしました。高度は低いものの、保安距離を渡御船にかからない範囲においたため、船の進行に関係なく時間に合わせての打揚げが可能になりました。そして文字仕掛けをクレーンで吊る技を取り入れ、翌年からは文字仕掛けのスポンサーが増え、委員会の収入増に寄与いたしました。またクレーンをつかったことで、山仕掛けもやりました。今はこの現場は水都祭というお祭りになり、大阪日日新聞が仕切ってます。でもクレーンの文字仕掛け、小型煙火打揚げは規模が大きくなっていますが、その様式を引き継いでくれているようです。
 当日の花火の模様は自宅に帰ってTV大阪の実況中継の録画で確認したのですが、当時毎年中継船に乗っていた浜村純さんに「今年の花火はすごい!例年と比べものにならない。」とおっしゃっていただいていたのには、TV画面を見てガッツポーズでした。またTV大阪屋上の中継スタジオでは、いままで撮るのに苦労していた花火が頻繁にあがるので、花火満載の中継になっていました。
平成11年の花火から天神祭の花火はかわったのです。
新しい試みと幻の尺玉
天神祭の花火は、当時最高3号ですが、本格的な花火を見よう思えば最低4号玉です。3号玉だと種類も限られ、がんばって一重芯もの程度、型ものも複雑なものは駄目、それが4号玉になると種類は断然豊富になり、4号で四重芯の菊ができていたと、以前聞いた覚えがあります。実は平成13年にそんな4号玉を打揚げたのです。
4号玉を打揚げるには、半径150mいりますので、市内でそんな場所を探さねばなりません。ありました!大阪城の西丸公園です。堀を含め保安距離は確保しているし、打揚げ時には閉園になっているので、人を気にすることはありません。30秒に1発で、100発打った様に憶えています。費用の捻出は、打ち揚がる時間が決まり、玉種類も判っているので
それを販売しました。「8時35分30秒のハート型花火」の様に証明書までつけて・・・
この企画、30秒に1発は間延びし、不評でした。玉数を増やせば良いと思いますが、翌年から没になりました、私も天神祭と関わらなくなったこともあって・・・
それと淀川花火で一回ポッキリだった尺玉=10号玉を、天神祭で揚げる計画を立て、色々暗躍しましたが、お蔵入り。場所は毛馬の閘門で、保安距離もとれ、使用の許可もとれそうでしたが、飛行機の航路の真上で着陸態勢に入っているということで管制からNG。幻になってしまいました。揚げてみたかったなー。